市民が語り継ぐ昭和

「令和5年度平和のつどい 市民が語り継ぐ昭和」が開催されました。
(8月13日 福生市民会館小ホール(つつじホール)にて)

平和のつどいは、市民による企画委員が企画・運営しています。
また、今回は都立福生高校の生徒も協力し、司会や平和に関する意見発表を行いました。

今年の講演者は、市内在住の植村譲治さん。
植村さんは、1932年(昭和7年)生まれ。幼少期を青梅市で過ごし、小学4年生で太平洋戦争が勃発、中学1年生まで戦時下での生活を経験されました。

「人生20年といわれた時代。私の話が、平和を考える一助になれば。」と穏やかな声で話し始めました。

特に印象に残っているのは、陸軍少年飛行兵の若者が家庭に泊まる体験をしていたこと。
青梅駅近くの肉屋に泊まりに来ていた若者が、感謝の飛行で青梅上空を飛行したとき墜落してしまったそうです。

遠足は立川飛行機に見学に行ったこと、手術の時も麻酔はなく「兵隊さんを思って我慢しなさい」と諭されたこと、布に利用するからと楮(コウゾ)三椏(ミツマタ)を採りに山へ行ったこと、油をとるために松根を掘ったことなど、小学生でも働き手だったことがうかがえました。

植村さんが兄のように慕っていた方が、出兵、戦死されたとのことで、とてもショックを受けたとのことでした。

昭和19年ごろから空襲が激しくなり、翌3月10日の東京大空襲のときは、東京の空がオレンジ色に見えたそうです。

勉強できること、芸術や文化を守っていかなくてはいけない。
努力しないと平和は守れない。
天からは降ってこない。

という言葉で、講演を締めくくりました。

講演後、終戦を迎えた時に思ったことを、会場の参加者から質問され、
「特に思ったことはない。ただ、今日からゆっくり眠れる。それだけ。
ウクライナの人たちは、私の実体験からして、きっと眠れないだろうと思う。」
と答えていました。

私の父は、昭和6年生まれで、植村さんと1歳違い。
青梅市内に住んでいましたので、同じ時間、同じ場所で過ごしていたと思われます。
青梅駅近くのお肉屋さんは、私もコロッケを買いにいったことがあります。

父からは、戦時中の話は1度も聞いたことがありませんでした。
話すのは嫌だったのかもしれません。
父の古い写真の中に、飛行機乗りのいで立ちの若者の写真があったことを思い出しました。
誰かはわかりませんが、父の思いのある人だったのかもしれません。

亡くなった父のことを思うと、語り継ぐことの大切さを、あらためて感じました。
そして、平和のために今できることをやっていこうと思います。